・嗚呼…
伊藤一刀斉との接触、再び武蔵の中にあらわれる石舟斉。そして自分と向き合い続けた武蔵は…。ああ着々と終わりに向かっているのが、ほんとに寂しい。
・ここまで切ないとは
わりと惰性で買い続けてきましたが、この巻でそれまでの感想が一蹴されました。
なんて切ない話だったんだ・・・!
読んでいて泣きました。
一番の功労者は、実は又八ではないでしょうか。
年老いた又八が橋の上で昔のことを語る、という展開になってから、非常に
惹き込まれる話になってきました。
実際のところ、私は剣豪でも道をきわめた人間でもないので
武蔵の心理描写や「天下無双」という言葉云々には、ついていけない部分がありました。
ですが、「凡夫」である又八が語ることによって、武蔵の本質が見えてくるような
気がしたのです。
又八の語りでぐっと親近感が増し、その上で読んだ武蔵のあのシーン。
とても良かったです。
年内には終わるということですが、最後までついていこうと思います。
・一刀斎の迫力
一刀斎に憧れていた頃の武蔵も面白い。
無刀の何がおもしろいのかねぇ、と言い捨てる一刀斎も面白い。
一刀斎は、ある意味武蔵が辿っていたかもしれないもうひとつの道を極めている。
武蔵vs一刀斎の戦いが静かにもりあがる
・はっとしました。
深いなぁ〜と思いながら読んできましたが、32巻を読んで、
井上さんは悟りを開いたのかと思いました。
私が最近感じていることに通じる内容であったため、自己流の解釈ですが、
バガポンドの内容に沿って武蔵が何を言っているのか補足してみようと思います。
なぜこのかたち?
少年時代の武蔵が自分の身体に対してこう感じます。
そして、自分はこの身体と刀をもらって生まれてきたのだと知る。
そう。このからだで経験するために。。。
何を?
この世に生まれてくる前の自分を。
であるなら、この身体を通して経験するあらゆること、そして経験するために必要な全てのもの
は、自分のが経験するために存在しているのか?
ものがあるから経験しているのではなく、経験するためにあらゆるものが用意されているのか?
親・兄弟・友はもちろん、自分に害をなす敵でさえも。
敵がいなければ敵と対する自分を知ることができない。経験できない。
だから、敵もまた自分のために存在しているということか。
それならば、誰かを恨む必要はないということか。
すべては自分のために存在しているということなのだから。。。
であるなら、今まで捕らわれてきた、我(殺し合いの螺旋、天下無双)は言葉でしかない
幻想であり、そもそもそんなものは存在していないことになる。
存在していると思っている自分の心の中以外には。
自分の中。それは過去に縛られた思考が渦巻いているところ。
これがそうだと思い言葉にしたり考えたりするところ。
でも、言葉は今(現在)ではなく、常に遅れている(過去である)。
言葉の前にはもっと純粋で複雑な思い・感情があり、それを言葉にすることで
簡単に表すことができる反面、とても小さなものに、または間違ったものに定義してしまう。
そして言葉で定義されたものは、既に今ではない。過去である。
なぜなら、言葉は思いの後にあるのだから。
つまり、言葉や定義にこだわるということは、過去にこだわっているということであり、
今ここ(自分)にいないということ。
言葉にしなくていい。
そうあればいい。存在すればいい。
私たちは本来そういう存在なんだ。
言葉の定義や根拠・理由は、全て後付けなんだ。
俺は俺のままでいいんだ。言葉で定義することは不要なんだ。
誰かに許しを請う必要もなければ、誰かを許す必要もない。
だから、過去の知識や経験によって今この瞬間の経験を定義して台無しにするのではなく
石がこの瞬間全力で石であるように、私たちもこの瞬間全力で私(今)であればいい。
私たちは過去と結びつけなければ、今しかない時に存在することができる。
そういうことなんだ。
自分は天に繋がっている限り、完全に自由なんだ。(沢庵和尚)
そして、本当は天と繋がっていない時など存在していない。
だって天は自分なのだから。
すべては自分の中にあり、それを経験する旅(人生)なのだから。
どのように見えてもこの旅は祝福であって、喜び・楽しいものなのだ。
それを理解したら分かるだろう?
だから「もっと笑え」。
長文失礼しました。
よけい混乱させたらごめんなさい。
現代社会にある「憎しみの螺旋」。
それを笑い飛ばしている武蔵(井上先生)を感じました。
・なんかもったいないな
精神論や理屈は嫌いじゃないんですが、武蔵が悟りの境地に向かっているというより、言葉遊びをしているような感じに見えてしまいます。共感できるほど武蔵の考えが伝わってこない。
一刀斎の「無刀ねぇ・・・?何が楽しいのやら?」というセリフに同感です
今後の展開に期待してるからこそ少し厳しめの評価です