・哲学的文学、芸術の最高峰。生涯忘れ得ぬ小説。
ニーチェの永劫回帰の思想をテーマに据えつつ、60年代のプラハの春という社会主義国家の
政治的背景の下ではただのちっぽけで無力な存在に過ぎない一人の男と、二人の女性の、
愛と嫉妬と性愛を描きつつ、人生あるいは人間という存在と、生命の重さと軽さについて読
者の哲学を問い続ける挑戦的かつ究極に芸術的な小説。
主人公のプレイボーイであるトマーシュは、単なる無類の女好きと評価されがちであるが、
決してそんなことはなく、むしろ普通の男、そのものである。ただ、「生活といううすのろ」
に耐えられないタイプの男であり、束縛が苦手というだけであり、モテすぎるということを
除けば、多くの男性は共感を覚えるはずである。
私は、映画から入ったので、トマーシュもテレーザもイメージが先にできてしまい、どうして
も顔が思い浮かんでしまい、それが先入観となってしまって、小説の正統的な読み方ができな
かった嫌いはあるが、本格文学を、芸術を心から堪能できた。訳者はチェコ語から直接邦訳し
ているが、その訳出の素晴らしいこと。訳者の文学性の高さは並の小説家は到底及ばないと思う。
一生のうち、このような小説が1本書けたらと、純文学を志す人なら誰でも思うだろう。ただ、
著者のクンデラ氏は、この小説を文学としての芸術性にこだわっているようには思えず、著者
の顔が物語の途中、所々に現れて、どうしても主張せずにはおられないという切迫したものを
感じる。小説という形式に拘わらずに伝えたいこと、問いかけたいことをぶつけてくるという
意味で挑戦的であり、亡命者である著者の、この作品と登場人物と、政治的背景に対する強い
思い入れが感じられ、読者は完全に虜にさせられる。
チェコからフランスに亡命した著者の真に渾身の命をかけた作品であり、私にとって生涯忘れ
得ない小説となった。これを越える文学作品が現れるとは到底思えない、究極の文学であると
思う。
・登場人物に己を見出さない人はいないのでは?
つきあってもいない女の子に手を出すあなたと、
「自分は特別な女の子だ」と思ってやまないあなたへ。
なぜこの小説が、20世紀恋愛小説の最高傑作と呼ばれるのか。それは、現代で恋愛をする全ての人々が、決して避けて通れない感情が全て書いてあるからだ。『肉体の悪魔』『初恋』『狭き門』…どの時代の恋愛小説にも書いていない、今を生きる人でないと感応できない昂りと凋落が、この本にはつまっている。男女が出会い、恋に落ちて、苦しんで、どちらかが死ぬ。古典恋愛小説に見られるステレオタイプの筋書きは、往年の輝きをどんなに誇っていようが、その輝きは現代においてはやはりくすんでしまう。私たちはもう、何のしがらみもなく自由に恋愛できるし、宗教や世間体に縛られずに自由に体を結びうるし、なかなか死なないから。でも、だからといって、特定の異性と関係していくにおいて、苦しみが取り除かれたわけじゃない。たやすく恋に落ちて、容易に同衾しても、「幸せ」は手に入らない。プラトンが『饗宴』で書いたように、相手と体を共有しながら暮らしていくのでない限り、私たちの苦しみは続いていくのだろう。「好きな人を完全に自分のものにしたい」という永遠にかなうことのない女性の欲求も、「完全な女性を自分のものにしたい」という男性の無理難題も、現代においてもまたその形を変え、世界中の人々の中で息づいている。哲学的叙述とポリフォニックな異質の構成の元に、クンデラはそれを、白日の下に曝け出すことに成功した。
“悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。“
最期の頁のこの文章を読むまでに、過去と未来の自分の恋愛感情を、読者は丁寧になぞることができる。愛を乞うことが、どんなに悲しいことであろうと、人はそれをやめない。穏やかな幸福があるからこそ、恋愛は悲しみという形をとる。
読んだら恋人に真っ先に会いに行きたくなる。そんな小説はもういらない。相手のせいで陥没した心を、一緒に冷静に見つめてくれる物語こそが、「現代の」恋愛小説たるべきだ。
読者が幸せだろうと不幸だろうと、その境遇をかなぐり捨てて、物語に自分を同調せざるを得なくなる。
乱暴な本だ。そしてその乱暴さに、惹きつけられてやまない。
(ただ、クンデラを初めて読む人のための本ではないかもしれない。読書リテラシーが不足していた3年前の自分は、5ページも読めなかった。他の著書で、彼の独特の文章に慣れてから読むと、いっそうこの本の魅力が伝わると思います)(by ちゅら@<おとなの社会科>)
・存在の軽さに耐えられない
4人の主たる登場人物のうち、いちばん共感したのがフランツ。社会正義への憧憬から戦地での医療救助隊に参加し、そこで頓死というのが笑い、かつ泣ける。
その死の意味さえも元妻の世間でのアピール材料になってしまう悲喜劇ないまぜ状態は筒井康隆やカート・ボネガットにも負けないスラプスティック。
もちろんそれ以外の要素も満載であるが、こうした視野の広さがあるところがこの小説の魅力であろう。
ところで著者名をずっと「グランデ」だと思っていた。
・上質なエンターテイメントと社会主義の関係
いやぁ、おもしろかった。表題に騙されることなかれ、シンプルに音楽家のようなクンデラのマジックに身を委ねるべき。
恋人のテレザもサビナも情熱的で肉感的で、読後心の中にいつしか棲みついてしまう。名うての外科医から落ちぶれて窓拭き掃除人になったあとも女遊びに余念がないトマーシュも笑えるが、各人がそれぞれぶれない軸、信念を持っていて深い共感を呼ぶ。戦場での決死の大パレードや、捨てた息子と再会して理不尽な息子の頼みごとを苦しみながら拒むとこなど。
現代の閉塞感の中で、一見完全勝利したかに思える資本主義と、トマーシュが生きた当時の社会主義のコンセプト、理想について、思いがめぐりました。
・Unique
私にとってのこの小説のいう「軽さ」は、私たちは本来ひとりひとりまったく異なったUniqueでかけがえのない(重い)存在である筈が、国にとって(特に共産国では)、社会にとって(今や日本では特にそうであろう)、また愛しい恋人にとって、簡単に取り替えの効く居なくなっても大して影響のない「軽い」存在なのだという視点です。
テルザの母親は、その美しさから自分を「かけがえのない、誰よりも幸せを手にする権利を持つ者」から、どこにでもいる中年女へと転落し、娘を初めからどこにでもいるありふれた小娘とみなして育て、娘のユニークな美点を認めなかった。テルザは自分を「かけがえのない取り替えのきかない存在」と認めてくれる他者が必要な娘に育ち、「どの女も違う(Unique)」ことを正当に評価するからこそドンファンであるトマーシュと出会う。しかし彼にとって、自分がやはり簡単に取り替えの効く軽い存在であるかも知れないことに苦しみ続ける。トマーシュの外に自分のUniqueを見つけ出そうとして挫折し、その結果選択する行動がトマーシュを成功=自己実現から遠ざけてしまう。常にトマーシュに苦しめられていると思いこんでいた彼女が「自分が大きな愛で彼をみていたら彼を不幸にしなかっただろう」と気づくところがとても哀しく、自分のもたらした今の不幸について彼に確かめたとき、トマーシュが「テルザが幸福であれば自分は幸福なのだ」のように応える。きっとトマーシュは同じことを何度もテルザに伝えていたであろうに、テルザは自分と同じように他の女を抱くトマーシュばかり見ていて気づかなかったのだろうと思います。救いは二人が幸福のうちに死んだであろうことです。
一方「トリスタン(ひとりの女を愛し抜いた人物)として死んだトマーシュ」と受け止めたサビナの心を考えると、息苦しくなります。トマーシュは求めるまま「自分」として生き、その結果は「重さ」に行きついた。サビナもまた「キッチュなもの」=ステロタイプを敵とする「個」として生き抜き、死後は風葬されることを望み、限り無く「軽さ」へと向かう。サビナの孤高さと強さが、テレザの孤独と弱さを対比させ、登場人物の持つ個性がもたらす必然(重い)としての死(軽い)は衝撃的です。
今の日本、私たちはいつでも取り替えの効く労働力もしくは購買力としてあり、「かけがえのない存在」として生まれた宿命を果たすことが困難な今の日本に、この恋愛小説は共鳴すると思います。25年前のヨーロッパの一共産国の渇望が、今の日本にある?
筆者が小説の中で様々に展開する分析の中の、どのような視線が必要か?のうち、「愛する者の目が必要な人たち」の範疇に自分を発見し、ます。テルザのように恋人のハンティング・ゲームの的になる夢は、恋愛における女性の苦しみの典型だと思います。そして、人生に同じことは2度なく、常に私たちは未経験の選択にさらされていること。私たちには過去の経験はなく、今の自分にとって必然の選択を、間違っているかもしれないとしても選ぶ。
読後に息苦しさを覚えるほど感動したのは久々です。ギリシャやヨーロッパの神話が挿入され、相当に読みにくい本でありながら、生涯読み続けたい本です。